
第五回 幻の香り素材 『アンバーグリス』
Poussière d’Ambre / Amber Powder
「アンバーグリス」は、マッコウクジラから採られる動物性の天然香料で、最も高価で貴重な天然の香り素材のひとつです。茶色のイメージの、暗く重く、レザーの様な、オリエンタルタイプのパフュームにはかかせない香調として知られています。黒色、茶色、灰白色が混ざったような油性の塊であることから、琥珀を意味する「amber」と、灰色を意味する「grey」を合わせ、「Ambergris(アンバーグリス)」と名づけられました。中国では「龍の涎(よだ)れ(=龍涎香)」といわれるほどに珍重され、媚薬として後宮の佳麗たちにはなくてはならないものでした。これの入手に腐心した清朝の宦官は、ポルトガル人に頼み「アンバーグリス」と交換にマカオを失ったとされています。古くは6世紀のペルシャ帝国皇帝に献上されたという伝説も残っており、「千夜一夜物語(バートン版のアラビアンナイト)」のシンドバッドの冒険にも登場します。6~7世紀にはアラビアで既に使用され、その後もビザンチン帝国の皇帝、中世ヨーロッパの王族、貴族等に珍重され、貴重な薬として、あるいは香り素材としてさまざまな形で使用され続けました。
とはいえ、「アンバーグリス」の正体は長い間不明でした。やがて近代捕鯨が始まると、「アンバーグリス」はマッコウクジラの胃や腸にできる病的結石であることがわかります。クジラはイカを常食としますが、モンゴウイカやヤリイカなどイカの嘴(くちばし)の部分が未消化になりやすく、それを核に結石をつくります。この結石は自然に排泄される場合もありますが、鯨が死んで身体が腐り、この結石の部分は比重が小さい(水より軽い)ので海上をプカプカと浮かびます。そして数十年後にどこかの海岸へ流れ着くのです。太陽にさらされたそれはflotteeと呼ばれ、非常に良いものとされるそうです。きわめて稀に海岸に打ち上げられる場合を除き、入手できる機会はほぼ皆無な為、「アンバーグリス」は“幻の香り素材”といわれており、現在は最重要香気成分テトラノルラブダンオキサイド(tetranorlabdane oxide)を精密有機合成でつくりだした「アンバー(amber)香」を有する香料が、香水産業にとって大変重要なものとなっています。

アンバーグリスの香りは、動物的であると同時に、特に女性の嗅覚を刺激する特別な魅力を持った甘さを特徴とします。他の動物性香料と同じく、直接触れなくとも嗅覚を通してホルモン機能に働きかけるフェロモンです。温かみある豊かなフレグランスは、豪奢で酔わせるような力を持ち、革や海の香りのエレガントで甘いトーンが感じられます。この香りを身に付ける幸運を持った女性は、異性に与える不思議な効果を体験することができるでしょう。また、この香気成分には、ストレスを軽減させるリラックス効果が期待できること、また、その香りをつけている人物の表情が他人から見て“親しみやすい”印象と評価される傾向があるそうです。